飛翔

日々の随想です

日記の効用


このブログを日記がわりにつけ始めて9年が経とうとしている。
 三日坊主の私がよく続いたものだ。
 公開しているにも関わらず、これだけ続いたのは、「日記」だからだろう。
 たくさんのブログの中の一つである私のブログなど,通りすがりの,何かのはずみで見ることはあっても、連続して読む人は,よもやあるまいと思ったからだ。
 つまり雑踏の中に紛れ込んだ「わたし」の存在など誰も興味を示さないだろうと思ったので、胸の中の思いを吐き出すようにブログ日記に書けた。
 とはいえ、人目を気にしたことは否(いなめ)ない。固有名詞を出したり、私がどこの誰かわかるようなことは避けたのだから意識下には他人の目はあったのだ。
 自分の胸の中に押し込んでいた亡き母のことや父のことなどを書くときは涙して時を忘れて書いた。
 それがカタルシスになった。「日記」の効用は胸の中のほこりを洗い流してしまうことにある。
 書くという行為は頭の中で言葉を組み立てて行く作業でもある。つまり書きなぐっていても、心を整理していく作業につながっていくのだ。読み返すことで、自分の心を目で確かめていく。つまりセルフセラピーになっているのだ。
 だから心の埃を洗い流すことができるのだ。

 そうやってこのブログを書きながら心のセラピーを自分でしていった9年である。何から書いてよいのやらわからない下手な書き手も9年も書いているうち、だんだんと書くのがおっくうでなくなり、縦横無尽に書き連ねていくようになった。
 本を読み終われば、その感想を書き、素敵な短歌を読めば感動してその思いを書いてきた。旅先の思い出を写真とともに載せていった。そんな記事を読んだ編集者から「書く」仕事をいただくようにもなった。書評を書けば、著者自らコメントを寄せていただいたこともあり恐縮しきりでもあった。
 全て私の歩いてきた道となった。よく書いてきた。ほぼ毎日書いたが、さすがに最近は筆が鈍ってきた。
 私も怠惰になってきたのか、心のほこりがたまらなくなったのか、はたまた感性が鈍ってきたのか。
 
 時は春。わが誕生の日も近づいてきた。その思いの丈も随分書いたものだ。さすがに書き疲れて、いえ、私のトラウマとなっていた生い立ちのいわれも、書いてきたことで綺麗さっぱり消えていった。
 書く事はトラウマでさえも治せることが立証できたことになる。長い道のりではあったけれど。
はからずも、自分で治す「書くセラピー」の立証となった。
参考図書として次の本を挙げておく。
 

日記をつける (岩波アクティブ新書)

日記をつける (岩波アクティブ新書)