飛翔

日々の随想です

片手の音を聞く


 待つということは辛抱がいる。この「待つ」と「辛抱」が大の苦手な私は、待てないいらだちで、どれだけ多くのことを失っただろうか。最近同じ轍をふまないように、意識して「待つ」努力をしている。
 答えを「待つ」。状況の変化を焦らず「待つ」。辛抱しながら「待つ」間、何を考えるかというと、これが禅問答のようになる。
 なぜ来ないのか?なぜ答えがないのか?なぜ?なぜ?状況が悪い。相手が悪い。「待つ」こと自体が耐えられないなどいろいろ悪いことを考える。「悪い」のはすべて自分以外の事象であったり、相手だったりするが、自分の内面を見つめると必ずしもそうではないと気が付く。
 白隠禅師が言ったといわれる「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」という命題がある。俗に「片手の音を聞いてこい」とも云われるものだ。
 音というのは叩く側があって叩かれるものの存在があって音が出るものと思っている。両手で打ち鳴らせば音が出るが片手で音を聞くとはどういうことだろうか?
 ここ数か月の間、今まで体験したことがないような苦しみにもがいた。そのとき、きがついたのは前述した「待つ」だった。
 「待つ」ことを深く考えたとき、天からふってきたように答えが降りてきた。もしかしたら、「片手の音」というのはそうしたものかもしれないと漠然と思った。
 ずっと答えがないまま、答えが返ってくるかどうかも分からないまま、ずっと待ち続けた日々。あるひ、降ってわいたように答えが心の中に浮かんだ。つまり、両手で打つのではなく、片手で鳴ってくれるもう片方の手を待っていたことになる。鳴らしてくれるであろう片方の手を根拠もなくただ信じて待っていたら、突然音が鳴った。
 つまりあるともないともしれぬものを信じるということは、己のうちなる心を信じて認めることなのである。
 あるがままの自分を認めたとき、そのときはいつだって片手の音を聴くことができるのだ。
 言葉にするのが難しい私自身の内なる答えである。

 ※みなさまにとって、「片手の音を聞く」とはどんなものだと思いますか?正解は白隠禅師だけが知っていることなので、どれが正解かはだれもわからない問題です。