いつも愛犬と散歩していた公園は森林を切り拓いたもの。
池が幾つもあり、八月にははすの花が咲く。
この池を一周しながら考え事をしたり、ぼんやり移ろいいく季節の風景を肌身に感じながら散策するのは楽しい。私の散歩の歩調と思考速度は絶妙に共振する。
この池の向こうにある木立を歩いていたとき、、死後何年も経っていた父の死が、突如現実のものとして受け止めた瞬間であった。
はらはらと涙が地面に落ちてこぼれた。
それはとても奇妙な経験だった。
薄暗い木立の中を何も考えずにただ歩いていたのに、「かさっ」と落ち葉を踏みしめたとき、その感情はこみ上げてきた。
長い間心の中に音もなく悲しみの落ち葉は堆積していった。
それはもう忘れるぐらい遠い昔の悲しみだったのに、「死の悲しみ」はいつのまにか静かに落ち葉が積もるように積もっていったのだった。
肉親の死はなかなか認めることができないものである。忘れたふりをして、認めたくなかった「死」。
誰にも語りたくなかった「死」。それは姉とでさえ語ることを避けてきたものだった。語ってしまったら最後、最愛の人の死をみとめてしまうことになってできなかった。
心の中に押し込めて、忘れたふりをしてきた「死の現実」。
それが林間にあって、落ち葉を踏みしめた瞬間、にわかにこみあげてきた。
「もういなんだ!死んじゃったんだ」
深い喪失感がこみあげてきて慟哭(どうこく)した。
死を乗り越えることなんかできない。
悲しんで、悲しんで、悲しみの向こうにあるもの。
それは「死」という深い喪失感から新たに自分の中に「故人」が蘇ってくる「復活」でもある。
もうそれは死ぬこともなく、失うおそれもなく、病むこともなく、苦しむ姿でもない。
自分の中に永遠に刻み込まれた愛するものの復活である。
悲しみと慟哭。その向こうには愛するものの永遠の「生」がある。