朝起きて窓を開ける瞬間がとても好きだ。胸いっぱいに新鮮な空気を吸うと朝の始まりを感じる。
庭に目をやると、木の枝に刺してあるリンゴやオレンジを、小鳥がついばんでいるのが見える。
春になると、目白が椿や、レンギョウの甘い蜜を吸いに飛んでくる。また梅にウグイスの言葉通り、梅の木にウグイスが飛んできていい声を聞かせてくれることもある。時にはつくばいの水で喉を潤している鳥もいて楽しい。
我が家の庭は雑木林のような風情である。ケヤキの巨木があるかと思うと、モチノキやもみじや種々雑多な木が無造作に植えてある。それらの木々にさまざまな鳥たちが羽を休めて遊んでいく。
つくばいの水で水浴びをするのはスズメたちだ。彼らの中には、水浴びだけでは物足りないのか、砂浴びをするものもいる。
ある日、物干しの下の砂地に奇妙な丸いくぼみを発見した。小さいのや大きいのや五個もある。
いったいこれは何だろうと思っていると、それはスズメの砂浴び場だった。よく観察すると、スズメは羽をばたつかせてやわらかい砂地に体が入るくらいの丸いくぼみを作っていた。羽についたダニや小さな虫を砂を浴びて取るのである。体をすっぽりとくぼみの中に沈めて羽をばたつかせて砂浴びをしている様子はなんとも愛らしい。飽きずに見ていると一羽だけとびきり汚いスズメが砂浴びをしている。体中、きなこをまぶしたように砂が付いている。つくばいで水浴びをした後、濡れたままの体で砂あびをしたからだった。
スズメの中でも潔癖症のスズメなのだろう。水浴びと砂浴びの両方をするお風呂グルメである。
きなこをまぶしたような姿に思わず笑いがこみ上げてきた。笑い声と気配(けはい)に気づいたのか、スズメがいっせいに逃げてしまった。
ところで、私は子供の頃から小動物が好きで、虫愛(め)ずる姫君のような女の子だった。
小鳥と親しむようになったのは小学一年生の頃からだった。習字の教室に通っていた私は、先生が飼っていた十姉妹(じゅうしまつ)に魅せられて、とうとう先生の十姉妹を譲ってもらうようになった。名前の通り、十姉妹はとにかく繁殖力が旺盛であっというまに増えた。卵からかえった雛をポケットに入れて暖めて死なせてしまったり、卵をこっそり布団の中に入れてあたためたり、相当ひどいことをしたが、十姉妹の鳴き声を聞き分けたり、まねしたりするのがうまくなった。
そんな体験があったせいか、いつのまにか、小鳥の声を聞くと心がなごみ、癒されるようになった。
毎日、やってくるすずめの鳴き声が聞き分けられたらどんなに楽しいだろうと最近思う。
歌人であり、野鳥研究家として知られる中西悟堂の名著「野鳥記コレクション」を読むと、
鳥の鳴き声を言葉として伝承したものを「聞きなし」と言うそうだ。「聞きならし」が詰まって「聞きなし」となったものである。
例えばホトトギスの場合は「特許許可局」のように聞こえる。
頭がはげた人が聞くと「テッペンハゲタカ」と聞こえるというのはジョークにしても面白い。
メジロは「長兵衛、忠兵衛、長忠兵衛」と鳴くといい、キジ鳩は「人取って食う食う」と鳴くという。
ホオジロの歌の「聞きなし」は「一筆啓上つかまつり候」が一般的だ。
これが賭博が盛んな「駿河、三河」地方だと「てっぺん一六、二朱負けた」と聞こえ、山形地方だと「丁稚びんつけ、いつ付けた。いつも付けんが、今日付けた」と聞こえるそうだ。これは貧しかった東北地方で子供達が丁稚奉公に出され、大店(おおだな)の小僧ともなれば、頭髪にビンツケ油をつけ、角帯をしめ、前垂れをかける。それが丁稚小僧の姿であったというから「聞きなし」も土地柄、暮らし方、時代を反映していて面白い。
そのほか、コジュケイは「ちょっと来い、ちょっと来い」と聞こえるとなると、交番の前でぎくっとする人がいるかもしれない。
私は、締め切り間際になると庭の小鳥が「原稿書けたか」と鳴いているように聞こえてしようがない。
夫に言うと、
「ビール一杯グイー」って聞こえて仕方がないという。
暑い夏、一服の涼を求めて山道を歩くとき、野鳥のさえずりに耳傾けて「聞きなし」をしてみるのも趣があるというものだ。憂き世のせちがらさを忘れ、野鳥と自然を味わうのは心が癒されるひと時だ。