飛翔

日々の随想です

2011年大つごもりのご挨拶


 20011年の大つごもりの今日。快晴。
 今年は天変地異の多かった年だった。しかも東日本ではいまだかつてないような地震津波。それだけでも大変な災害なのに、福島第一原発の爆発により、放射能がまき散らされ、海は汚染された。地球規模の放射能汚染である。
 事故が起きてから9か月たっても、責任は誰もとらない。総理を辞任してお遍路した管元総理はなにごともなかったように普通の生活に戻った。東電は少しでも賠償金を出さないようにと、何十ページにもわたる難解な書類を被災者に配り、補償の手引きとした。
 広大な敷地に豪奢な保養施設を持つ東電。目の玉がとびでそうな高額な給料。それに引き替え、被災者は住み慣れた土地に住めず、いつになったら帰れるのかさえわからない。二重のローンに苦しみ、仮設住宅の劣悪な環境にじっとがまんしているのだ。
 東電の幹部よ!あなたたちも、家族全員仮設住宅にすむことをお勧めします。現在の豪奢な邸宅に被災者を住まわせる。
 これがお詫びです。原発推進派の御用学者、関係者も全員仮設住宅に住むこと。除染活動にも御用学者、元総理、元の閣僚たちも従事すること。
 東電は電気料金の値上げを要求しだした。民主党の現総理は消費税の値上げを国民に訴えている。
 公約を何一つ守らないものが何を言うか!政権交代したのは掲げた公約に国民が期待してのこと。
 憤りが多く、なに一つ解決しないことが多かった2011年。
 戦後焼け野原から復興したのは、我々日本人である。東日本大地震の被災者の皆様、日本人みんなで復興に向かって手を取りあおうとしています。くじけず、待っていてください。
 
 身の回りのささやかなところに幸はある。
 幸せと云うものがあるのなら、それはふと笑みがこぼれるところから生まれるのではないだろうか?。
 では笑みがこぼれるときとはどういうときだろう?
 江戸時代末期の歌人橘曙覧(たちばなのあけみという人がいる。
『橘曙覧(たちばなのあけみ)全歌集』(岩波文庫)の中から独楽吟(どくらくぎん)と題した連作歌がある。
 52首もの歌はすべて「たのしみは・・・」からはじまっている。

・たのしみは 珍しき書(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時
・たのしみは 妻子(めこ)むつまじくうちつどい頭(かしら)ならべて物をくふ時
・たのしみは 空暖かに うち晴れし春秋の日に出(い)でありく時
・たのしみは 朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲けるを見る時
・たのしみは 家内(やない)五人(いつたり)五(いつ)たりが風邪だにひかでありあへる時
・たのしみは 心をおかぬ友だちと笑ひかたりて腹をよるとき

などと52首が並ぶ。
江戸時代末期の歌人の歌にこんなになごやかで心ほどける歌があったのかと驚くとともに嬉しく共感するのである。

・たのしみは 朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲けるを見る時は驚くなかれ天皇訪米の時、時の大統領、クリントン氏が歓迎式典で引用した歌である。
このうたは亡き母が毎朝発する言葉とそっくり同じだったので親しみがます。時代を超えて人の心に生じる感情は変わることがないと感動する。

本来歌というものはこうした感情から生まれるものではないだろうか?
「わ!昨日まで咲いていなかったのに起きてみたら咲いている!嬉しい!可愛い!愛しい!」
親子五人食卓を囲んでものを食べていられることって本当に嬉しくて楽しくて幸せだ!

そんな感情はだれもが持っている喜びである。
そんな嬉しいこと、幸せなことなのに、人はさほど幸せだと感動しない。
しかし、昨今のように不況の嵐の中にいるとそんな日常の喜びや幸せがどんなに大切なものだったかを思い知るのだ。

人はささやかなことにいつのまにか眼もくれなくなってしまったのである。
それはあって当たり前のことになってしまっているのだ。

家族そろって食卓に着くこと、誰もきづかないうちにかすかな音とともに花のつぼみがほころびることなどを。
指の先をちょっと怪我をして初めてその指がどれだけ重要なやくわりをしていたのか気付くのだ。

生きとし生けるもの。そのささやかな営みの中に多くの楽しさがあり、笑みがあり、命あることの喜びが詰まっていることをみつけたいものだ。
来るべき2012年はそうしたことを念頭に慎ましくも和やかな一年であってほしいと切に思うのである。

 このブログをご訪問くださった皆々様、今年はありがとうございました。
 来年は皆様にとって幸多く健やかな年でありますよう祈念いたします。

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