飛翔

日々の随想です

「ヘンリ・ライクロフトの私記」

ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)
ギッシング
岩波書店
 愛読書が何冊かある。その中でも読むたび、自分の年齢をかさねるごとに、読後感が変化し深まるものがある。それはジョージ・ギッシング著『ヘンリ・ライクロフトの私記』(岩波書店)である。

 南イングランドのデヴォン州の片田舎に住み、読書と田園の風景に心を寄せ、思索する一人の人物、ヘンリ・ライクロフトの自伝風随筆である。自伝風随筆と言ったが、実はヘンリ・ライクロフトは架空の人物で著者のギッシングの分身である。
主人公は売れない文筆家だったが、ひょんなことから遺産を手に入れイギリスの片田舎に引っ込む。そこで書いた手記がこれだという設定になっている。全体の構成は春夏秋冬の計103篇にわたるエッセイから成り立っている。
 イギリス人でない私がこの本に深く共鳴し印象を深くするのは、主人公が感じている季節感の繊細さである。イギリスの田園を背景に移ろいゆく季節の詩情に身を置く一人の人間に深い感慨を覚えるのである。

 秋の一節を引いてみよう:
  木立と木立の間にはさまれた道は、一面に見渡す限り落ち葉におおわれていた。まるで、うすい黄金色の絨毯であった。さらに進むと、ほとんどカラマツばかりの植え込みにでた。それは濃い黄金色に輝いてお
り、ここかしこに点々と血のように真っ赤な色がみられたが、それはかりそめの、ま ばゆいばかりの、秋色に輝く若い「ぶな」の木であった。

 このほか春・夏・冬とその繊細極まりない自然描写は続き、英国人でない私をも魅了してやまないのである。
 そして自然描写ばかりでなく、主人公の本を愛する心が満ち溢れている部分が共感を呼ぶ。
 
 あるとき古本屋で一冊の本に釘付けになったライクロフト:
「私の持っている書物は本来ならいわゆる生活の必需品を買うべきお金であがなわれたものだ。その本は6ペンスだった。6ペンスは全財産だった。それだけあれば、一皿の肉と野菜が食べられるはずであった。ポケットの銅貨を指先で数えながら、私の内部に争う二つの欲望に苦しみつつ舗道の上をうろうろ歩いた」
 ついにその本を手に入れたライクロフト
本の最後のページを繰ると鉛筆書きで、「1792年10月4日読了」とあるのにきがついた。
 「ほぼ百年前の、この本を持っていた人は、いったいだれなのだろうか。自分の血を流し、命をけずる思いでこの本を買い、私と同じくらいこれを愛読したある貧乏で熱心な研究者が想像したくなるのだ。どれくらい私が愛読したか、今やちょっとやそっといえそうにない」
 

とある。                 
一読書子である私にもこのライクロフトの気持ちはいたいほど分かる。少ない小遣いをにぎりしめて古本屋の前をどれだけ、うろうろしたことだろうか!

 さらに、
  平和な憩いの一夜が明ければ、悠々と起き、いかにも老境に近い男にふさわしくゆっくりと身じまいをし、今日も一日中、本が読める、静かに本が読めるといういい気持ちに浸りながら階下に下りてゆく」、「この部屋のしみじみとした静けさはどうだ! ・・・幾列にも並んでいる愛する書物をずっと見回している。書棚に新しい本を一冊置くとき、『私の読書する視力が続く限りはそこに並んでいてくれ』と私はその本に向かって言うのである。そんなときは嬉しさのあまり体がぞくぞくする。自分の楽しみのために、自分を慰め、強めるために本を読むのだ。物静かで心を静めてくれる書物、高潔で心を激励してくれる書物、一度ではなく再三再四熟読玩味するに足る書物等々。


 とライクロフトに言わしめるように、その生活は読書、散歩、思索からなりたっており、静謐で瞑想的な生活が過ぎていく。


 こうして自然への詩情あふれる描写や本をこよなく愛す主人公に共感するが、何よりも心を打つのは、自己への強靭な誠実さである。主人公は自分を赤裸々に露呈し、貧乏に苦しみ、さまざまな挫折に苦しむ姿をさらしながらも、それらを克服しようとする。そこに感動を覚えるのだ。逆境にあるとき、さみしいとき、この本から励ましや慰めをもらう。また年齢を経て読むとき、人生の寂寥を自然に寄り添うことで慰められる主人公に共感するのだ。

 さて、最後に私がこの隠れた名著を読むきっかけを紹介しようと思う。それは高校の英語の授業がきっかけであった。
 高校の英語の男性教師は服装には頓着せず、着たきり雀。びん底眼鏡をかけ、発音が悪く、風采があがらない中年の人だった。
 この教師は授業中、折に触れジョージ・ギッシングの話をする。ビン底眼鏡の奥にある眼がキラキラ輝いて、ギッシングの洗練された文章がよどみなく流れ、乗り移ったかのようになる。
 私達女生徒はいつのまにかこの教師に、いや、ギッシングに、いやそのどちらでもなく、一人の人間が光彩を放って輝き出す瞬間の魅力に惹き込まれて行ったのである。いつのまにか、クラスのみんなはギッシングの「ヘンリ・ライクロフトの私記」を手にしていた。
 大都会から辺境なこの地に移り住んだ今、ひなびた田園の風景が寂しい私の心を慰めてくれるにつけ、思い出すのが「ヘンリ・ライクロフトの私記」とあの英語教師である。私は嫁入り道具の中にこの一冊を忍ばせてきたのを思い出し、再読を重ねる。
 日記風に田園を叙し、世態を批判しつつも、洗練された「ヘンリ・ライクロフトの私記」の文が心を打つ。
 高校生の時には読み取ることができなかったのは人の心の寂寥である。季節の移ろいや自然の美しさが、人の心に寄り添ってくれることを、年齢を経た今、しみじみと味わい、理解できるのが嬉しい。
 本の魅力はこんなところにあるのではなかろうか。人生経験が読みを深め、味わいを濃いものにする。自分の人生と共に常にかたわらにある『ヘンリ・ライクロフトの私記』はそんなことを教えてくれた一冊である。