飛翔

日々の随想です

「サイレント・マジョリティ(声なき大衆)」

かつて中日新聞では、隔週日曜掲載の田辺聖子のエッセイ「あめんぼに夕立」があって、これが滅法面白かった。
 お聖さんの見た世相をぬる燗の日本酒を干しながら、ユーモラスな関西弁で小気味よく切ってみせてくれる。もうすぐ年末になると「忠臣蔵」をテレビではやることが多い。この「忠臣蔵」についてのエピソード。

 お聖さんが愛する昭和党のおっちゃんとの会話:
忠臣蔵は国民ドラマやからなあ。以前(まえ)は仇討ちドラマはいかん、と占領軍に止められてたから、その間、文化がとぎれた。やっぱり日本人には“忠臣蔵”がなかったら、あかん。お茶漬けには漬物(おこうこ)、というようなモンじゃっ!」とオッちゃん。

 お聖さんは「忠臣蔵」を知らない子供らに文化の断絶を憂い、いい年の中年らも知らないと嘆く。曰く:
忠臣蔵もさりながら、すでに国民文学というような小説にも疎い。外国のアニメにくわしくても、今や吉川英治先生の『宮本武蔵』を知らない」と嘆く。
京都の観光タクシーの運転手さんによれば武蔵と吉川一門との決闘跡の説明すると「なんで共産党の宮本さんと社会党の佐々木さんが決闘せんならんねん」と問われたという実話の披露まで出る。さらに極めつけは高校生との会話:
忠臣蔵の話をすると「なんで殿中で刀抜いたらあかんのん?」「武士の面目、いうもん、あるっんじゃ!」「でも大勢で急襲して爺さん一人殺すなんてかわいそう」「君、辱めらるれば臣、死す、っていうてな…・」
少年はここで「ちょっと」と言って去っていったそうな。

そのうち、田辺聖子さんや昭和党のオッちゃん達が憂うように日本人同士、日本語に注釈をつけなければ通じなくなる時代がやってきそうだ。え・もう来てるって?

いやいや、そんなことはない。まだまだ『司馬遼太郎』を愛読してやまない「サイレント・マジョリティ(声なき大衆)」がいることをわすれてはいけないのだ。

坂の上の雲』を読み続けている日本国民がいることをわすれてはいけない。
上記に掲げたお聖さんの憂いも確かなことではあるが、司馬さんを読み続けているサイレント・マジョリティという日本語の岩盤に希望をもちたいものである。
でも「ちょっと」と言って去っていった少年はこの先どうなるのだろうか?