飛翔

日々の随想です

人に似て猿も手を組む秋の風

季節や気温と云うものは人間の行動や感情に微妙な風情を喚起するもののようだ。
だんだん涼しくなって秋も深まる頃になると、もの思いにふけったりする。
思索にふけるとき、懐手(ふところで)をしたり、無意識に手を組んだりするものだ。
そんな様子を元禄の俳人はこんな風に詠んだ。

人に似て猿も手を組む秋の風  珍碩(ちんせき)

この一句を高浜虚子は次のように解釈していて妙味。
珍碩(ちんせき)は芭蕉の弟子である。秋風の吹く頃はうら淋しく、どこかに寒さを覚えはじめるので、猿もじっと手を組んでおる、それが人に似ておるというのである。この句の如きは秋風のもの淋しさを現そうとして、無心の猿もまた自然その物淋しさを知っておるという風に言ったところに、多少の厭味を持とうとしておる。元禄の句には質朴なところがあって、僅かにそれを救うておるのである。(『俳句はかく解しかく味わう』高浜虚子著(岩波文庫)より)

俳句はかく解しかく味う (岩波文庫)

俳句はかく解しかく味う (岩波文庫)

解釈の一部が少々わかりずらい。
どこかというと、「多少の厭味を持とうとしておる。元禄の句には質朴なところがあって、僅かにそれを救うておるのである」という部分。

「多少の厭味を持とうとしておる」とはどういうことだろうか?
その答えが次の箇所にある「元禄の句には質朴なところがあって、僅かにそれを救うておるのである」
「質朴」を救うのが「厭味」?「厭味」の意味が分からない。
つまりこうとってはどうだろうか?
高浜虚子が言うところの「厭味」というのは嫌味ではないようだ。
つまり物淋しいという風情を写実的にあらわすといかにも「質朴」すぎて味気ない。そこで、無心の猿もまた自然が持つ物淋しさを知っているという風に擬人化するという手法(多少の厭味=技巧をこらす)によって単純すぎる=「質朴な」句に妙味を持たせる=「元禄の句にみられる質朴さから、僅かにそれを救うておる」ことができた。

と解釈してはどうだろうか?
確かにただわびしげな風景をそのまま詠むよりも、猿が手を組むという風に擬人化すると猿でさえも思索にふける秋の情緒が濃厚にでるというものだ。

猿を登場させたのはたまたまなのか、あるいはふと猿の様子をみていて思いついたのか、はたまた技巧的にこうしてみてはどうだろうかと思って詠んだのか?

いずれにせよ「猿も手を組む秋の風」とはうまいものだ。
猿に座布団を進呈しよう。
お〜い、山田く〜ん。