飛翔

日々の随想です

谷沢永一氏を偲んで

 昨日の続いて、故谷沢永一氏を偲んで、氏の著書の中からかつて書いた書評をを再掲載しようと思う。

人生を豊かにする日本語

人生を豊かにする日本語

酢豆腐」「多岐亡羊」「汗牛充棟
 さて意味は如何に?
 ことわざ、言葉の妙、を「言葉の達人」谷沢氏が読み解いていくのが本書。世にあまたある「熟語辞典」や「ことわざ辞典」のように「生きた蝶を捕らえて標本にしたもの」とは趣を異としている。
 本書の帯には「こんな言い方があったのか?絶対知らない336語」「知らずに生きるなんてもったいない」とある。全11章。「人間理解が深まる日本語」「奥深い意味にうなる日本語」「言葉遊びの粋を味わう日本語」「人生の味わいをめぐる日本語」など、掲げられた項目に言葉と人間との深い関わりを思わせる。
また、ことわざばかりでなく落語からも引き、落語の中の時代と現代における「言葉の世相」を比べるあたりは実に妙味。その例が「酢豆腐」という言葉。
 『腐って酸っぱくなった豆腐を、知ったかぶりの若旦那が「これが、酢豆腐というやつよ」と言って食べたー「酢豆腐」という落語に由来する言葉。すなわち、「酢豆腐」は通ぶる人、知ったかぶりのこと。昔の「酢豆腐」、現代の「ワイン通」の共通点とお見受けする。』とある。
 孔子の言葉からは「韋編三度絶つ」(いへんみたびたつ):
 孔子の時代、紙の書物は存在しない「竹簡」の時代だった。竹に漆で文字を書き、それを紐で連ねた。その「竹簡」の時代。孔子が「易経」を何度も熱心に繰り返し読んだ為、綴じていた革紐が三度も切れたと言う。以後、繰り返し熟読することを「韋編三度絶つ」と言う。
 さてかくのごとく「絶対知らない336語」が最終章まで連なる。
 本書の凄いところは、これらの言葉を歌舞伎、落語、能、史記司馬遼太郎尾崎紅葉夏目漱石谷崎潤一郎永井荷風泉鏡花芥川龍之介内田魯庵、などからその用例を引いているのだから驚くばかりだ。どこにどんな言葉が用いられているかを熟知する著者。まさに読書の達人ならではのこと。
その例:
『遼東(りょうとう)のい(豚)の子』:他人から見れば何でもないことを独りよがりで得意に思うこと。
「いのこ」とは豚のこと。「遼東」は中国東北部遼寧省の遼河以東のこと。
昔、ここに豚を飼う男がいた。あるとき、頭の白い豚が生まれたので自慢してやろうと、河東に連れていったところ、その地の豚はみな頭が白く、その男は自分の無知を恥じ入ってすごすごと帰っていったという。
そこから、無知、世間知らずゆえに、平凡なものを珍しいものと勘違いして得意がることを「遼東のいのこ」という。
 この言葉、内田魯庵はこんなふうに使った。魯庵は三文字屋金平という名で明治文壇を罵ったとき、「文学者なる法」の冒頭献辞に、「謹みて遼東の豚の子一匹を今の文学者各位の前に呈す」と書いた。これは、悪口を言う自分をも遼東の豚にたとえて笑いものにした皮肉である。この本は無知な本なんだから、それに反論する奴もまた無知ということになるぞよ、という意味である。むろん、この無知は文壇の奥底をえぐった無情な訳知りが、世間知らずと自称する皮肉である。
 ことほどさように本書は単なる故事、熟語の解説辞典などとは大きく異なることが理解できよう。あとがきで谷沢氏は「すべての言語表現は圧縮されたものであり、それらが受け継がれ、醗酵させてきた要因、役割はそう簡単に読解できないものである。そのうえで表現された意味と心持ち、思惑を手探りし、言葉の連結によってできた語句と文脈を読みとる方向へと歩みをすすめたい」と語っている。達人にしてこの謂い。まさに「人生を豊かにする日本語」の深みをみる。
 本書が面白すぎて「麦をただよわす」ことを案ずる。