飛翔

日々の随想です

北越雪譜

北越雪譜 (ワイド版岩波文庫)

北越雪譜 (ワイド版岩波文庫)

暖かい地方に住む私は雪が降ると情緒があるとか、歌の一首、俳句の一句でもひねりたくなるが、豪雪地帯の人にとっての雪は時には魔物と化すものである。そんな雪についての事実を多くの人に伝えたいと丹念に筆を起こしたのが本書の著者である。印刷技術が発達していなかった当時、日本全国津々浦々の人に訴えたいと筆をとった著者の胸中がひたひたと胸に迫る本である。
 本書は百七十年前に越後塩沢に生まれた鈴木牧之(ぼくし)が雪の観察や、雪国で暮らす人々の生活や習俗、哀歓、奇談を綴ったものである。
 雪を観て花にたとえ、酒をのみ、音曲を楽しみ、詩歌や画で愛でるのは[和漢古今の通例なれども、これ雪の浅き国の楽しみ也」
と雪国で千辛万苦する者の胸のうちを綴ることからはじまる本書。
なだれの恐ろしさは腕をもぎ、首をちぎりと悲惨を極める。雪国での災害、とくに「雪吹」(ふぶき)の章は悲しい話で胸がつぶれる。
子どもを出産したばかりの若い夫婦が妻の実家へ子どもを見せに行く途中吹雪にあう。吹雪がやんで乳児の泣き声に雪を掘ってみると夫婦手を引き合って死んでおり、妻の懐には赤ちゃんがかばわれて助かっていたという話。
花のように舞う寸雪の吹雪は、暖地の「観るため」の雪であり、丈雪の吹雪の恐ろしさは上記の如しと嘆く。
「善人の家に天災を下ししは如何んぞや」と詠嘆する著者。
まさに昨今の豪雪被害にあった人たちの嘆きと同じである。
今でこそニュースメディアが発達しているのでその惨状や雪の恐ろしさは全国津々浦々に伝わるけれど、二百年前は、北越、雪深い地方の生活や習俗など誰も知るよしもないことだったろう。
著者は名字帯刀を許され、俳諧をたしなみ、画を描く教養人であったが、越後塩沢の一商人にすぎなかった。その一介の者が自分の住む地域や習俗、暮らしぶりを世に知らしめ、理解を深めようと三十年余りに渡って苦心して刊行したことは類をみない労作である。
そのほか、雪の中から燃えでる火の話は越後地方に埋蔵されている天然ガス自然噴出の貴重な記録でもあり、一方、熊が人を助けてしばらく暮らした話などはユーモラスな趣がある。
北越地方の習俗や自然との係わり合いを語りつつも、世の人々に雪のために力を尽くし、財を費やし、千辛万苦する辺境の地の実態を伝えたいという一市井人の気概に満ちた作品だった。
折りしも、この地は昨今の地震により被害を受けた地でもあり、豪雪被害に泣いている実態を目の前にするとき、本書の千辛万苦の記述は今も少しも変わらないことに深く考えさせられる。
最後に本書の中で印象的な言葉があった。それは「雪をこぐ」と言う言葉。腰まである雪の中を前に進むとき、それはまさに水を渡るときのように「漕ぐ」のだ。一歩一歩両足に力を入れ、雪や水の圧にまけずに進む様子が脳裏に浮かぶ。雪の怖さ、すごさは二百年前の様子と現在の未曾有の豪雪と少しも変わらない。
雪という白い魔物がいかに恐ろしいか、雪を愛でるのは『これ雪の浅き国の楽しみ也』を痛感。