飛翔

日々の随想です

赤い糸


  中学生になろうとしたある日、父がこういった。
 「入学祝いをあげようと思うので、好きなものを言いなさい」
 私はしばらく考えて「犬がほしい」と答えた。
 次の日曜日、家族そろって新宿の三越の屋上へでかけた。ペット売り場には熱帯魚のほかにいろいろな種類の犬が売られていた。あまり広くないドッグランに当時人気があったスピッツや柴犬の子犬がじゃれて遊んでいた。その中に茶色い毛糸だまのようなものがうずくまっているのが見えた。それは子犬だった。
 「おいで」と呼ぶと、ころころと転がるように歩いてきた。家族五人の手がいっせいに子犬の方にさしだされた。子犬はわき目もふらずにまっすぐに私のほうに突進してきた。
 抱き上げるとまあるい黒い瞳と私の目がぴったりとあった。
 それが「五郎」との初めての出会いだった。犬を選びにきたのに、私が犬に選ばれた瞬間だった。
 五郎はアイヌ犬である。カラフト犬とも呼ばれる。あの南極観測隊に置き去りにされ、生き残った「太郎」と「次郎」と同じ犬種である。柴犬よりも一回り大きく、尻尾がくるりと巻いて、丈夫で飼い主に忠実な犬だとされている。
  我が家の一員となった五郎は、その日から私の無二の親友となった。おやつはいつも半分っこにして食べた。狭い犬小屋の中に入って一緒に昼寝をし、図書館で借りてきた本も一緒に読んだ。私がピアノを弾くと五郎が「うお〜ん」と歌う。一緒に歌っているのか、下手なピアノを嫌がっているのかはわからない。
 もちろん、毎日の散歩も一緒だ。散歩が大好きな五郎は、嬉しさのあまり引き綱をぐいぐいと引っ張る。坂の下から上を見上げると、犬がまっしぐらに駆け下りてきて、その後ろから、女の子が綱にひきずられて降りてくるのが見える。それが私と五郎の散歩風景となった。
 庭の一角に別棟を建てた日のことだった。
 棟上げ式がすんだ夜はずいぶん冷えた。夜中にぱちぱちと音がするので母が雨戸を一枚開けて庭を見た。すると棟上げがすんだばかりの柱の間から火の気と人影が見えた。父は寝巻きのまま、そばにあった野球のバットを持って庭に出た。酔っ払った労務者風の男がカンナくずで焚き火をしているようだった。
 母が警察に電話をしているあいだ、父と男が口論をしている様子。そのとき庭にいた五郎が男のほうに突進して行った。
 「ぎゃー!」
 男の声が闇にとどろいた。
 「い、い、い、犬をなんとかしてくれ〜ぇ!」
 男は尻もちをついたまま起き上がれない。その男の上に五郎が乗っかっている。よく見ると五郎は男にじゃれているのだ。男が怖がれば怖がるほど、五郎は遊んでもらっていると勘違いして頭をこすりつけたり、飛びついたりしている。
 そこに警察官がやってきて男は住居不法侵入で捕まった。
 五郎は幼犬ではあったが、四本の足は太く体重も重く、真っ黒な鼻のまわりはまるで小熊のようだ。酔っ払いにとっては、さぞかしどうもうな犬にみえたことだろう。
 この事件後、父は五郎を訓練しようと考えた。近所の獣医さんに相談して犬の家庭教師を頼むことにした。犬に家庭教師だなんて前代未聞である。早い話が獣医さんの友人にどろぼう役になってもらって勝手口から入る振りをするだけのことだ。
 犬は本能として怪しいものにはほえ、テリトリーを守ろうとして相手を襲撃する。
 どろぼう役の人は防護服と防護手袋を身にまとい、勝手口から五郎に襲い掛かる振りをする。五郎は激しくほえ、防護手袋に噛み付き、振り回す。数ヶ月間、同じようなことを繰り返し、訓練は終了した。
 その後、勝手口に誰かが近寄っただけでも五郎はほえるようになった。
 おっとり温室育ちの五郎坊ちゃまは、以来、勇敢な戦士に変身した。
 私が二十歳(はたち)になり五郎が八歳なったある日、一人の友人を我が家に招待した。家族一同、なごやかに歓談し楽しいひと時が過ぎた。友人が帰ろうとすると、庭のこごめ桜に気がついたようだった。
 「可憐な花ですねえ」 
 そういうと、ガラス戸をさっとあけて外に出た。とめる暇もないすばやい動きだった。
 (五郎に襲われる!)
 家族一同、おもわず目をつぶった。
 おそるおそる目を開けると、今まさに飛びかかろうとしていた五郎が、友人のふところに、鼻づらをおしつけてじゃれていた。
 家族以外、誰にも心を開かなかった五郎の突然の変化に一同はおどろいた。
 人間同士でも一目ぼれと言うのがあるが、犬と人間にも目に見えない赤い糸があるのかもしれない。ちょうど私が五郎と初めて出会った日のように。
 それから数年後、私は五郎を実家において嫁入りした。残された五郎は、ほおけたように、ぼんやり過ごす日々が多くなった。
 春のある日、五郎はひっそりと天に召された。五郎十五歳。老衰死だった。一緒に遊んだ、こごめ桜の木の下に埋めてやった。
 中学の入学祝として初めて我が家にやってきた五郎。あの日も桜が咲いていたね。
 「大好きな五郎!楽しい日々をありがとう。安らかにお休み」
     * * *
 ところで、こごめ桜の木の下で、一瞬にして五郎と心を通わせた、あの友人の消息はどうなったのだろうか。
夫に尋ねてみよう。
「ねえ、あの時、五郎に魔法でもかけたの?」