飛翔

日々の随想です

光源と対象(雨二題)

雨2題のお話をしよう。
 お能の演目に「江口」というのがある。
 男と女がある日雨宿りがきっかけで言葉を交わす。女は色香漂う遊女「江口の君」。男はというとあの「西行法師」である。西行天王寺参りの帰途、降り出した村雨を避けようと遊女の宿に立ち寄る。ところがここの宿の主(あるじ)でもある遊女は、こんなところで雨宿りは困ると西行を追い立てた。そこからが会話の妙の始まりだ。
 西行はそんなに嫌がらなくても良いではないかと一首詠む。
 世の中を厭ふ(いとう)までこそかたからめ仮の宿りを惜しむ君かな
 すると遊女は笑ってこう返歌する。
 世を厭ふ人とし聞けば仮の宿に 心とむなと思ふばかりぞ
 宿を断ったのは、西行の僧侶という身を思って断っただけなのに、宿を惜しんだなどと言われてはあんまりじゃないかと遊女の気迫ある答えだ。
 遊女「江口の君」は才たけた美貌の人。元をただすと平資盛の娘であった。平家没落後、落ちて落ちて、ついには、遊女にまで身を落とした人だった。
お能の舞台では、人間浮き世への執心を捨てれば、菩薩の道はひらくと語るや、江口は普賢菩薩となって白像にまたがり消えていくという筋立てになっている
 実際は歌のやりとりのあまりの面白さに江口は西行を招き入れてもてなす。
 才気に満ちた魅力的な西行と美しくこれまた才ある遊女「江口」の夜もすがら語りあかす感激は一期一会の法悦の極みだったであろう。

 雨2題。次は太田道灌(おおたどうかん)の山吹伝説である。
 ある日の事、道灌(どうかん)は鷹狩りにでかけてにわか雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこんだ。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきた。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪だった。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行った。
 その夜、道灌がこのことを語ると、臣下の一人が進み出て、「後拾遺集醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに
 七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき
 「というのがあります。その娘は蓑(みの)ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか」
 と言った。驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったという伝説だ。
 この話は年端もいかない貧しい娘の深い教養の素晴らしさにある。貧しいので蓑はありませんと言ってしまってはあまりにもみじめである。貧しくとも口にだしてそれを言わずに歌に寄せるこの誇りと機知が素晴らしいではないか。

 西行と遊女「江口」の場合は打てば響く会話の妙。こんな軽妙洒脱なやりとりは相手あってのこと。太田道灌のように歌の意味を知らなければ折角の機知もからぶりに終わってしまう。
 打てば響く相手であるからこそ互いが光りあうというもの。一方が輝くだけでは暗闇の中のダイヤモンドと同じである。光源と対象があってこそ光あうというもの。
 西行と遊女「江口」が交わし合った歌で、お互いが驚きと歓喜に打たれた瞬間だったのではなかろうか?落ちぶれた遊女が名高い歌人西行に勝るとも劣らない歌でぴしゃりと答えた瞬間。そしてその丁々発止の歌のやり取りのなかに互いの魅力の深みを量り合ったのではなかろうか?そんなやりとりが出来る魅力を自分の中に持たない限りはそんな相手にも恵まれないということになろう。
 人生は長いようで短い。打てば響く相手に恵まれる喜びは何にもかえがたい。ベクトルが同じだと感じる瞬間は嬉しい。例えば読む本の傾向が似ていて、さっきまで読んでいた本で感動した箇所を偶然にも評じている人をみると嬉しくなる。それがたまたまであればどうということはないけれど、回が重なるとなんだか同士のような気持ちになってくる。
 気持ちが純な人ならなおさら嬉しい。直球しか投げられない私のことゆえ、まがりくねった複雑な人は苦手だ。
 懐に飛び込んで心置きなく語り合える関係は本当に心地よい。
 しかも、お互い安住するのでなく切磋琢磨していけるのなら、なおさら嬉しいことである。