飛翔

日々の随想です

和歌が主役の能

 能「忠度」(ただのり)は世阿弥の作とされるもので、武将であると同時に歌人でもあった忠度(ただのり)の『千載集』(せんざいしゅう)についての執心と忠度(ただのり)最期(さいご)の有様を語る能である。
 これは修羅物とよばれるものであるけれど、修羅の苦しみを訴えることがない作品である。
『行き暮れて木(こ)の下蔭を宿とせば、花や今宵の主(あるじ)ならまし』
と詠んだのは薩摩守忠度(さつまのかみただのり)
一の谷の合戦で源氏方の岡部の六弥太が討ったのは誰あろう年若き平家の公達(きんだち)。かの有名な薩摩守忠度(さつまのかみただのり)だった。

地謡がその様子を歌う。
♪「おいたわしいことだ。
この方のお遺骸を拝見すると年若く、末永く生きられるはずのかた。
薄くまだらに染められた紅葉のような、錦の直垂(ひたたれ)を召されている。
これはただものではない。
このお方は公達の中のお一人だろうと、箙(えびら)を見ると不思議なことに短冊をおつけになっている。見ると旅宿と題して『行き暮れて木の下蔭を宿とせば、花や今宵の主ならまし』(シテが舞う)
とある。さては有名な薩摩守忠度であられたか・・・。なんとおいたわしいことだ。♪

忠度の亡霊は僧に回向をたのみ姿を消す。
という筋書きで、前半の語りが長い。
後半は忠度が美しい箙(えびら)装束に背中には矢に短冊を背負っての公達姿が能装束の美と重なって大変美しい。
「千載集」に載った忠度の歌は平家は朝敵ということで「読み人しらず」として名を削られた。歌人である忠度は我が命でもある歌を作者不明の中に消滅してしまうのを悲しみ亡霊となって定家に伝言を頼むというのが主題だ。合戦で自らの短冊を背負った平家の公達の最期の様子が重なって詞章の美しさと能装束の絢爛、謡いの聴覚から入る美が綾なす幽玄がそこにはある。
源氏と平家が織りなす合戦は物語としても面白いけれど、この能は修羅物でも修羅の苦悩を語らず最後まで『行き暮れて木(こ)の下蔭を宿とせば、花や今宵の主ならまし』と和歌を主役として結んだ風雅きわまりない傑作である。
文学としての言葉の美、詞章の風雅に光を投射した世阿弥という人物の偉大さを感じないではいられない。
能楽の素晴らしさはそぎ落とせるだけそぎおとした舞台演出とそれに反するように絢爛な錦の能装束。コーラスとしての地謡、笛、大小の鼓、太鼓だけのシンプルな音曲。最小の舞台構成の中に最大の美を織り込んだ能の魅力ははかりしれないほど奥行きがある。