飛翔

日々の随想です

妻の右舷


 朝お弁当をつめていると夫が「お昼は独りでパンを食べているんだろうなあ?珈琲をおいしく淹れてさ」と言い出した。
「え?私のお昼ご飯のことを心配してどうしたの?」と尋ねると、「ふと、昼間、どんな顔をして食べているんだろうか?と思ったのさ」と答えた。

 夫や妻。最も身近な者である。
 でも、身近すぎて、知っているようで知らないのが妻だったり、夫だったりする。
 そんな自分の伴侶についてこの人はこんな詩を書いた。

妻の右舷

妻の右舷

本書は四半世紀を越えた結婚生活の中で夫が妻を描いた詩集である。
あとがきで著者は妻を「自分にもっとも身近な他者」と表現する。

著者は学生時代に妻と知り合い、卒業、就職、結婚、一男一女をもうけた。
そんな「自分にもっとも身近な他者」である妻へのまなざしが全編を覆う。
何十年と連れ添って、知っているようで知らない妻の魂の深部に分け入ろうとする詩。

「家の方へ走っていくバス」

子供たちは学校に送り届けたところ 妻は家にいるはず
みんなが出ていった家のなかで
ひとりでいる妻を(当然ながら)僕はまだ見たことがない
(省略)
この渋滞からたったいまUターンして
妻に会いに行こうかと思う きっとびっくりして
「あら、忘れ物?」とか言うだろう
「いいや」と応えて、・・・だがそのあとの想像が続かない
話したいことがある訳じゃない
ひとりきりでいるとき 妻が抱かれているもの
人間ではないそいつにこそ会ってみたいのだ

「妻を読む」

妻は言葉では書かれていないので
長編小説を朝までかかって
読みあげるようには
ゆかない
(省略)

字面ではなく文体を捉えたい
妻からも自分からも遠くはなれた静かな場所で/
大気に雪の気配を嗅ぐ小枝のように
妻を読みたい

と(一生一緒に生きてゆくだけでは満足できずに)、(表情でも仕草でもなく)妻そのひとを読みたいと詠いあげる著者。

二人で築いてきた歳月。その歳月の中に刻まれた襞の一つ一つを分け入るうち

(君と会ったことは僕にとって/掛け値なしに最大の幸運だったが/その逆もまた真なりと云えるだろうか)と思い、(中学の同窓会へ妻が出かけた/後日写真が届いた/私でなくたってよかった/かもしれなかった人生/無数の/可能性に阻まれた唯一の現実の薄日が/食卓の対岸に佇む妻を包んでいる)

と(私でなくたってよかった/かもしれなかった人生)を選択した妻へ感謝する一方、(後ろめたさの竿を差して舟を渡す)と表現する著者。

あとがきに(これは愛妻詩集ではありません)とあるけれど、全編に(妻そのひとを読みたい)と思う愛にあふれる。
一方では、(ここにこうしていることがそのままで贖いになることができたらどんなにいいだろう)と哀しみにも似た思いを溢れさせる。

愛を越えた愛があるならばそれは相手を知り得ない哀しみにも通じるのかもしれない。
言い換えるなら、朝晩顔を突き合わせていても存在丸ごと、魂の深部まで知りえないことへの憂いにも似たもの。

あとがきで著者は自分たちをありふれた中年夫婦と称している。
しかし四半世紀を越える日常のふれあいの中で、夫がこんなにも妻の心にまなざしを深くすることに感動をおぼえる。
生涯かけて熟読玩味しても読みきれない書物。それは人の心という本だろうか。
そんな静かな哀しみにもにた愛の詩集だった。