飛翔

日々の随想です

中谷宇吉郎随筆集 (ワイド版岩波文庫)

中谷宇吉郎随筆集 (ワイド版岩波文庫)

中谷宇吉郎随筆集 (ワイド版岩波文庫)

中谷宇吉郎は「雪」博士として世界的に有名な物理学者である。また大学時代の恩師寺田寅彦からの学問的影響と文筆活動の衣鉢も受け継いだ名随筆家でもある。
本書は名著「雪」(岩波新書)をはじめとし「中谷宇吉郎随筆選集」(朝日新聞社)などの作品から編者が選び抜いた作品40篇。(編者は寅彦、宇吉郎の影響によって科学を志し、中谷門下の一人でもある研究者)。解説に寄れば本書は「宇吉郎が楽しんで書いたと思われる作品。世代を越えて人に語りかけてゆくもの、時代の記録として残すべきもの」を選んだ由。大きく四つに分けられていて、(一)「雪」に関するもの。(二)宇吉郎の自伝的作品。(三)寺田寅彦に関する作品。(四)科学的な考え方について。
どれも名品であるけれど、中でも「宇吉郎が楽しんで書いたもの、寺田寅彦がらみ、科学的な考え方、「雪」の結晶」などをすべて盛り込んだ作品「南画を描く話」が楽しく出色。

宇吉郎は敬愛する寅彦から多くのことを影響された。その一つが油絵。
寅彦の油絵をみた宇吉郎は羨ましくなって自分も描くことにした。

十枚ばかり描いて寅彦先生の所へ持っていくと『ふうん、およそ油絵というものを少しでも習った人ならば、こうは描くまいという風な具合に描いてあるね。なかなか面白い』と褒められた

とある。
この一文から寅彦と宇吉郎の人物像が想像できる。寅彦は褒めたのであろうか?宇吉郎は「褒められた」と解釈。勇気百倍「ルンルン」する宇吉郎。ユーモラスで何とも楽しい師弟関係が浮かんでくる。
さて、いよいよ本論。

ある日、宇吉郎は静養中に知人から寅彦が描いた墨絵をもらった。すると今度は油絵でなく墨絵を描きたくなった。初めて描いたのは「雪の結晶」。顕微鏡写真を眺めては「雪の結晶」の墨絵を試みれど表現がうまくいかない。さて、科学する心は日常から生まれるのである。ある日新聞の写真を見て発見!人の顔が小豆粒大に写っている。顔の形をなすものは大部分が黒、一部に白い斑点があるだけ。しかし、それぞれの特徴が出ていて表情まで分かる。墨絵のような一色の濃淡だけしか使わない物や、新聞の写真のような粗い点で描かれたごく小さな人の顔がそれと判別できるのは、見る者の頭の作用を利用するからだと発見。理屈は分かっても、名画は描けないものだ。そこで次ぎにこだわるのは「墨」。寅彦の「墨流しの研究」で培った研究をここでも発揮。篆刻家から唐墨を借り日々熱中。すっかりこの名墨に惚れ込んでしまった宇吉郎は返す時に「女房と別れるよりもつらい」と書いて返却した。しかし、その後どうしてもこの名墨が欲しくなった宇吉郎は「一世一代の名文」を書いてついに入手。

さ〜て、「女房と別れるよりもつらい」の一文よりもさらにすごい極めつけの「一世一代の名文」とはどんなものだったのだろうか?

かくの如く本書はどの篇をとっても気取らない文と温かな人柄がにじみ、随筆を読む楽しさ、滋味を堪能できた。また日常生活の様々な現象を偏見なく科学する事の大切さを書いた「立春の卵」や、「今日直面している多くの困難は大半がわれわれ自身でもたらしたものだ」という「硝子を破る者」の随筆は時代を超えて「平常心を失わない精神」への警鐘であり鋭く読者の心を揺さぶるものである。

随筆を読む楽しさをたっぷりと味わった読後感。