飛翔

日々の随想です

向田邦子に学ぶ

向田邦子全集(3)

向田邦子全集(3)

 文は人なり」と言う。
 文を書くということは、書き手の思考や思想、ひいては人柄までにじみでてくる。
 しかし、論文や公に出すもの、特に新聞などは事実を忠実に伝えることを主とするものは書き手の思惑や主観などをまじえてはならないものである。
 それとは反対に随筆などは自由気ままに書き手の思いを書くので自ずと人柄がでる。文から体温まで感じるものもある。
 エッセイの名人といえば向田邦子があげられる。年末から年頭まで向田邦子全集(エッセイ)を読んできた。
分厚い本である。
 よくこれだけの文を書いてきたものだとその分厚い全集の重さと厚さと中身に平伏するのだった。
 戦中、戦後を通じて祖母、父、母、長女(邦子)、弟、妹二人の7人家族の様子はまるで昭和を代表する家族ドラマを見ているようだ。
 独善的な頑固親父とそれに従順に従う母、父親の違う子供をそれぞれ二人もうけた未婚の母の過去を持つ祖母。長女として賢く気働きができた子供であった長女の邦子。弟と妹二人。
 語るものは多く、その切り口は鋭い人間観察に根ざしているけれど、どこまでもまなざしは人間味に富んでいてあたたかく、この家庭だからこそ向田邦子が誕生したのだともいえる原点をみるのだった。
 今まで多くの「文章読本」なるものを読んできたけれど、それから学ぶことはあくまでも文章の書き方であった。
 読み終わって分かったような分からないような気持ちになった。
 それは読み手に分かりやすいように書くこととか、何が書きたいのか的をしぼれというものから哲学的なものまであった。
 しかし、いくら文を上手に書いたとしてもそれが何だ!という結論を向田作品を読んで発見した。文の上手下手などは瑣末なことなのである。「いかに生きてきたか、いかに生きようとしてきたか、いかに人間を見てきたか、いかなる人間ぶりであったか」が文をなす最も重要なことなのだ。

 小じゃれた文を書いたところでなんぼのものなのである。文は人なりでなく、いかに生きようとしてきたかなのだ。
 去年の歌会始のお題が「生」であった。
 皇后様のお歌にあるように生物として生きる糧である餌をとるべき口という機能すら与えらられずに生まれた「ユスリカ」の「生」。生まれてすぐ死ぬべき運命を課せられた「ユスリカ」。しかし早春の淡い光の中で集団で蚊柱となって群舞する「ユスリカ」。生まれてきてすぐ死を迎えなければならないはかない命のユスリカが光の中で舞う。それはまさしく「生きていること」の謳歌の一刹那なのである。その小さなものの命にまでまなざしを向ける、その心が大切なのである。その心なくしていかなる文も無に帰するのだ。

 文を磨くのでなく人間を磨くこと。それにつきる。
 向田邦子全集の中の随筆編を読んでつくづく人間を磨かねば何も始まらないと痛感したしだいだ。