小説はフィクション。つまり創りものである。
随筆はつくりものでなく、平易な文体で筆者の体験や見聞を題材に、感想をまじえしるした文章のことをさす。
そんな随筆を読むのが好きでいろいろ読み進めている。
科学者でありながら達意な文で随筆集を出した寺田虎彦の『寺田虎彦随筆集』第一巻(岩波文庫)、その弟子の中谷宇吉郎の『中谷宇吉郎随筆集』(岩波書店
)、そして昨日書いた免疫学者で新作能の作者でも有る多田富雄『能の見える風景』(藤原書店)はすばらしく面白い。
最近面白く読んだエッセイ集は女優の高峰秀子の『にんげん蚤の市』(清流出版)、『にんげん住所録』(文春文庫)が傑作だった。
かねてより、高峰秀子の文才は有名であったが、こんなにさっぱりさわやかに、それでいて人間の奥深さを感じるエッセイとは知らなかった。
人間の素性を鋭い目で射抜いてしまうようである。子どものころから一家を背負って稼がなければならなかった目が大人や世の中を見抜いてきたのだろう。
しかし、根底にはやさしい気遣いに満ちた高峰秀子がいる。そんな高峰がみる小津安二郎や、黒澤監督、淡谷のり子との出会いや彼らの素顔を描く文はわれわれがこの巨人たちにいだく姿とはまるで違うものであり、温かみのある筆致に目頭があつくなってしまった。
こういう生きた文を読むと下手なつくりものの小説が味気なくみえてしまう。
そして当代一のエッセイストといえば、向田邦子を置いて他の人が入る隙はないと言ってよいだろう。
向田邦子全集の中でも第二巻第三巻とそのエッセイで占められているように膨大な数のエッセイを残している。
軽妙な筆さばきに夜があけるのも忘れてよみふけってしまう。
そして時代はさかのぼって薄田泣菫の『茶話』(冨山房百科文庫)『艸木虫魚』 (岩波文庫)はもう私のバイブルのような存在だ。
何十回と読みたい随筆である。
まだ秋の夜長に読みたい随筆はある。吉行淳之介の随筆『街角の煙草屋までの旅』(講談社文藝文庫)、半藤末利子著『夏目家の福猫』(新潮文庫)がそれらである。
これらの名随筆を読むと「人間やっているのも悪くない」と思う。
そして、人間ばかりでなく、虫も、木も魚も猫も、心してみれば愛すべきものたちであることをしみじみと感じるのである。
生きているのに死んだ目と心でこの世の中を見ていた自分に気がつく。
随筆は面白い。当分は随筆を読んでいこうと思うのである。