飛翔

日々の随想です

「老いらくの恋」と独裁政治


悪夢なのか夢魔の仕業か、一生の中で軌道修正がきかないぐらい常軌を逸することがある。
 自分でもわかっているのに、歯止めが利かない。それは恋のときもあるだろうし、ギャンブルだったり、不倫だったり、宗教的なことだったり。
 老いらくの恋もそのひとつかもしれない。老いを感じはじめたとき、白髪を一本見つけたとき、小じわを目尻に見つけたとき、嫌でも「老い」が忍び寄ってきたことを思わないではいられない。
 そんな尻に火がついたような感じ、命の砂時計がサラサラ落ちて、残りの砂が目で見えたと感じたとき、人はどんなふうに来し方、行く末を思うのだろうか?
 目の前にキラキラ輝くものをみたとき、その対象に限りない若さや美やあこがれを見る。
 そんな時、心の隙間に入り込むのは「夢魔」。
 老いらくの恋に火がつく。
 夢中で生きてきて、ふと立ち止まったとき、人生のほとんどの部分が消化してしまったことに気づく。やり残したことはなんだろうか?家庭も安定し、子供も独立、可もなく不可もない日々に、隕石のようにたち現れた魅惑の人がいたなら、そこから化学反応が起きたように恋の炎が燃え始める。
と、ここまで書いて、ペンが止まってしまう。
 このイントロを布石のように置くと、これから老いらくの恋が始まるものと読者は思うだろう。
 ありきたりの三流小説になる。三流小説でなくするにはどうするか?
 構想が二転三転してペンが止まる。
 戦争もなく平和ボケした私が書こうとしている三文小説が、にわかにきな臭くなってきた。
 言論弾圧や、言論統制が起きないともかぎらない日本。それどころか、独裁政治の色濃い昨今の日本を憂う。