飛翔

日々の随想です

「須可捨焉乎」は何とよむでしょうか?


子供の頃「はやし言葉」っていうものがありましたが、みなさんは知っていますか?
私の子供の頃は「♪泣き虫毛虫はさんですてろ」というのがありました。
これは遊んでいて急に泣き出した子にまわりの子供たちが「わ〜い、泣き虫毛虫、はさんで捨てろ」とはやしたものです。
これはいじめなんでしょうか?
そうでもないように思います。
子ども心に「ねえ、泣くなよ」とか「そんなことで泣いちゃだめじゃないか」と励まし半分、泣きべそちゃんをからかい半分というような感じで言っていたように思います。
その証拠になきべそをかいていた子どもがこの「はやし言葉」に怒って、言った本人をおいかけまわしているうちにいつのまにか「鬼ごっこ」に変わってしまうことがよくありました。
決して陰湿ないじめのたぐいではなかったと思います。なかば[わらべ歌]のようなもの。
俳人黛まどかさんの『知っておきたいこの一句』PHP文庫
を読んでいてとてもおもしろい一句を見つけました。

知っておきたい「この一句」 (PHP文庫)
黛 まどか
PHP研究所

・ 短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(竹下しづ女)

「須可捨焉乎」はさて何とよむでしょう?
わかった人?分からないながらも「須可捨焉乎」の「捨」の字がヒントとなります。
 これは「すてっちまおか」と読みます。
うそー!とおもうでしょ?本当です。
「須可捨焉乎」は漢文なのです。

この句は夏の短夜(みじかよ)を、乳を欲しがって狂ったように泣く赤児をもてあましてぼやいている母の歌。
生まれたばかりの嬰児というのは授乳間隔が狭く、すぐにお乳をほしがって火がついたように泣きます。産後間もない母は疲れきっています。
「そんなに泣くと捨ててしまうよ」と嬰児をあやすようにさとすように言う母である作者。
本気で「すてっちまおうか」などと思っているわけではなく、さとすように、あやすように言っている感じがにじみます。

なぜ「捨てっちまおか」でなく「須可捨焉乎」にしたのでしょう?
作者はもと国語教師。漢文に親しんでいた人だからかも。
私が独断と偏見でいうならば、「捨てっちまおか」にすると語感、字面(じづら)から何か生々しく本気っぽい感じがします。
「須可捨焉乎」という字面(じづら)からは現実的な語感から少しはなれて骨太な感じがします。
おっぱいをふくませながら愛しげにわが子をみる「かあちゃん」の自信のようなものを感じます。

作者の竹下しづ女は明治二十年生まれ。結婚前は教師として音楽、国語を教えていた人です。そして結婚後は五人の子どもの母となりながらも「ホトトギス」に投句。
夫が亡くなり五人の子の母のしづ女は図書館司書となり後に若い俳人たちを育成。
わが子五人だけでなく多くの若者を育てた肝っ玉母ちゃんの俳人竹下しづ女。

「はやし言葉」といい、前述した一句といい、「捨てる」という言葉に潜む体温やぬくもりは陰影に富んでいます。
「言葉」の持つ懐の深さを感じました。

とは言うもののやはり「捨てる」と云う言葉、特に人間に対して使われる場合は要注意かもしれません。
 それを知っていたからこそ、作者はあえて難しい漢文「須可捨焉乎」にしたのでしょうね。