飛翔

日々の随想です

村上春樹氏による核への「ノー」と叫ぶスピーチ

今日も酷暑の一日だった。名古屋地方36度。
 長崎に原爆が落とされて66回めの今日、アメリカの大使が初めて長崎を訪れ、原爆慰霊碑に花をたむけた。
 原爆を落とした張本人のアメリカ。そのアメリカ大統領のオバマ氏がノーベル平和賞を受賞したのは奇異なことだった。彼は平和を謳っただけで、何もしていない。それどころか平和スピーチをしたその足で、アフガンを爆撃したのだからノーベル平和賞とは何なのだろうか? 
 中日新聞の朝刊第六面全部に村上春樹が6月9日にスペイン・カタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文が掲載された。
 彼のメッセージは福島第一原発事故を日本にとって原爆の惨禍に次ぐ「二度目の大きな核の被害」とするメッセージだった。
原爆投下から66年が経過した今、福島第一原発は数か月にもわたり放射能をまき散らし、周辺の土壌やうみや空気を汚染し続けている。いつそれをどのようにしてとめられるのか、まだ誰にもわからない。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害だ。今回は誰かに爆弾を落とされたわけではない。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのだ。なぜそんなことになったのか?
 理由は「効率だ」だ。
 原子炉は効率が良い発電システムであるt、電力会社は主張する。つまり利益が上がるシステムである。日本政府はオイルショック以来原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策とした。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディァを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植えつけた。そして気が付いたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によって賄われるようになってしまった。原発に危惧を抱く人に「ではあなたは電気が足りなくてもいいんですよね」という脅しのような質問が向けられる。国民の間にも「原発に頼るのも、仕方がないか」という気分が広がる。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるというのは、拷問に等しい。しかし、効率的であったはずの原子炉は、今や地獄のふたを開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っている。それが現実だ。
 原子力を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのだ。

 我々は電力会社と政府を告発すると同時に、自らも告発しなければならない。
 我々は被害者であると同時に加害者でもある。そのことを厳しくみえつめなおさなくてはならない。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるだろう。
 我々日本人は技術力を結集して、持てる叡智を結集して、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追及すべきだったのだ。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人はバカだ」とあざわらったとしても、我々は原爆体験によって植えつけられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのだ。
 それは広島と長崎でなくなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずだ。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずだ
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広島に続き、長崎に原爆が落とされた今日、私たち日本人は、この村上春樹氏のメッセージをわがこととして受け止め、原発をやめ、核への「ノー」を叫び続けることを誓おうではないか!!!