飛翔

日々の随想です

沢木耕太郎と「昔日の客」

バーボン・ストリート (新潮文庫)
沢木 耕太郎
新潮社

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カバーデザインが平野甲賀、装画が小島武、解説が山口瞳ときたら、もう読む前から酩酊しそうだ。
酩酊と言えば、本書はよく磨きこまれたバーカウンターに差し出されたバーボンのような味のエッセイ集である。
15のエッセイが編まれており、講談社エッセイ賞受賞作品。さりげない伏線、言葉の深み、味わいと陰影、最後に見事な落ちと、これはもしかしたらエッセイでなく小説なのではと錯覚するほど。これを解説で山口瞳は次のように評する。


『本書を読んだとき、ヤラレタ、完全にヤラレタと思ったものだ。それはノンフィクションをフィクションのように、エッセイを小説のように書く作家に遂にめぐりあったような気がしたからだ。直木賞候補作品を読む時期でもあったが、困ったことに本書は直木賞候補作品よりも遙かに小説になっている。小説になっているだけでなく作品としてすぐれている。「暫然として頭角をあらわす」という具合にすぐれていた。感動の強さ、味わいの深さがまるで違う』


まことに言い得て妙。本書を評するのにこれに勝るものはない。


心に染みいる章「ぼくも散歩と古本が好き」を紹介しよう。

古本好きの人なら、自分の通った古本屋の親父について、ひとりくらいは語りたい人物がいるのではなかろうか。

東京・大森にあった山王書房の店主の話である。

『そこはどんなに綺麗な新本でも定価から四割近く値引きされていた。今はもうすっかり忘れ去られた作家の古い本も棚のよい位置に並べられ大切にされていた。古本を大事にしている姿勢が気持ちよかった。店のガラス戸には若山牧水室生犀星の詩歌が筆写された書がさりげなく貼られており、店のどこかにはいつも季節の花が活けられていた。欲しい本が何十冊にもなると、カバンに入りきらず、残りを次まであずかってもらったりした。


足が遠のいて一年がすぎたある日突然山王書房から手紙が舞い込んだ。店主の死を告げるもので、暮れになって本が届いた。
追悼録と店主の遺稿集だった。(『昔日の客』)
それを読んではじめて店の親父はこういう人だったのかと知った。
遺稿集に収められた文章は随想がほとんどで驚くほど面白い物だった。その中にこんな一編が。


店主は店を閉めた後の電灯も消えた薄暗がりでひとり椅子に座って棚に並んだ本を眺めるのが好きだったという。時代に取り残され、いつまでも根が生えたように棚から動かなくなる本もでてくる。しかし、彼は《私は売れなくてもいいから、久米正雄の本を棚の上にそのまま置いておこうと思う。相馬御風、吉田絃二郎、土田杏村の本なども今はあまり読むひともなくなった。古本としては冷遇され、今は古本屋の下積みとなっている不遇な本たちだ。マリー・ローランサンの詩の一節に「もっとも哀れなのは、忘れられた女です」というのがある。古い書物の辿る運命もまた同じで、忘れられた本は古本屋の片隅で顧みられようともしない》
ある晩、親父は店の棚にある志賀直哉の『夜の光』を抜いてきて、広げてみる。その見返しに元の持ち主の手になる走り書きが達筆なペン字で残されている。「なぜ私はこの本を売ったのだろう・・」
私には、薄暗い店の中で、この見返しの文章を見つめて佇んでいる古本屋の親父の姿が、心に深く喰い入ってくる。恐らく、彼は本を売る者の痛みのようなものがよくわかる古本屋だったのだ。金のない本好きの気持ちがよく分かる古本屋だったのだ』<<



 古本にまつわる本は多い。しかし、かくも胸に染みいるのはなぜだろう。
本好きの読者ならお分かりになるだろう。
古本の話の中でも滋味にあふれたこのエッセイは絶品。
よく磨きこまれたバーカウンターに差し出されたバーボンのような味のエッセイ集。

軽妙洒脱な章ありと実に味わいがあり、15編に酩酊した。