飛翔

日々の随想です

『ひっつき虫』

 隣の県、岐阜県、多治見市の今日の気温は 39.4℃だった。これは人間の体温よりも高い。体温だとしたら高熱で病院へ駆けつける温度である。冷房が好きでない私もさすがに今日の気温には参って、クーラーをつけた。ああ、なんと快適なことか!快適な環境で読んだ本は杉本秀太郎の『ひっつき虫』(青草書房)である。

ひっつき虫
杉本 秀太郎
青草書房

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 いつだったかこの杉本秀太郎さんの京都の自宅がテレビに映し出されていたのを見たことがあった。京の町やの風情が残る素晴らしいお宅だったが、そこでの暮らしぶりにも目を見張った。
 京都、綾小路通新町の角を左折すると、京都市指定有形文化財の杉本家大邸宅がある。  杉本家は呉服商で、屋号は「奈良屋」。寛保3年(1743年)に『奈良屋』の屋号で呉服商として開業された杉本家住宅が、平成2年(1990年)に京都市指定登録文化財に指定されてから、(財)奈良屋記念杉本家保存会の維持運営にあたっている。敷地500坪にわたる京都市最大規模の古い町屋建築であり、江戸時代の大店の構えを残し、祇園祭の際には、「伯牙山」(はくがやま)のお飾り場として、通りに面した「店の間」に、「ご神体」や懸装品が飾られる。敷地の半分以上が庭であり、当主の秀太郎は、なるべく自然の趣を再現させるべく、庭にワレモコウやフジバカマを育てている。毎年、花ニレや水仙が枯れた後、芽を出すフジバカマは、秋の七草に数えられるが、今では絶滅危惧種となっている。(香りが良いので、)昔は陰干しにし、箪笥(たんす)にしまっていたという。
 屋敷地一帯は、平安時代には、関白となった公卿・藤原頼忠の屋敷があった所で、歌人で有名な(息子の)藤原公任も住んでいた。屋敷の真ん前が「矢田寺」という寺で、「平家物語」を語る琵琶法師たちの集合場所だったそうである。だから前の通りは(平安時代には)、琵琶法師や、藤原家の召使(家人)たちが行き来していたんではないか。注意を凝らせば、京都には、まだまだ、「平安時代の匂い」の感じられる物は、ところどころに残っているんじゃないか。
杉本秀太郎はいう (朝日新聞夕刊・文化欄『風韻』、平成15年(2003年)7月18日、財団法人奈良屋記念杉本家保存会ホームページより)。
 お嬢さん三人のうち、嫁いだ長女を除いて次女、三女と奥様とがこの家のすべての奥向きをまかなっているようだったが、四季の行事を丁寧に継いでおり、先祖の書き残したものに忠実に食事も作っている様子が映像となっていた。丹念に作る伝統の料理は簡素で京の町やの人の質実さがかいまみれた。
 ひっそりとした黒光りのする床を拭き磨き、京野菜を中心につくる「おばんざい」の数々。京言葉のはんなりとした美しさ。水を無駄にしない心遣い。古き善き日本人の伝統がまだここにはある。こうしたゆかしい日本人の心をなくさないでいたいものだ。
 当主の杉本秀太郎さんはフランス文学者である。エッセイスト賞も受賞した達意の文を書く人であることはすでに衆目の一致するところである。
 随筆『ひっつき虫』からは清い泉の水を飲むような趣にうたれる。こんなにも美しい文章があったとは!驚きにページを繰る手が何度も止まった。
 「水仙」から引いてみよう:
 野性の水仙をもとめて早春の森を歩いた。柏、ブナの落ち葉が深ぶかともつもっている森のなかはあかるいが、雪解けのあと、一帯は沢沼の趣を呈していた。すぐそこに水仙が二輪、三輪、咲きでているのに、ぬかるみが摘み取らせてくれない。(略)
 いくらか小高くなって、ぬかるみが切れた。私たちは両手指の輪がいっぱいになるまで水仙を手折(たお)った。(略)
 ホテルに戻り、番台に座って鍵をわたす女主人に一束の水仙をプレゼントすると、齢(よわい)八十となろうとする老女の目に涙があふれた。パリ育ちの小柄な、上品なこのおばあさんが若かりし日、思わずくちびるを当てたうれしい春の花束のなかに、水仙も、ヒアシンスも、すみれも、まじっていたであろうか。(略)
 ローマ神話ディアーナという月神は何よりも狩を好む女神であった。私たちが沢山摘んできたサンリスの水仙は、ディアーナの振りまく月の光、そして聖母マリアの足許に光る三日月の影が、冬枯れの森の下地に砕け散った遠い世の名残のようであった。

 美しい叙情的文に添えられた絵はウオーターハウスの「喇叭水仙の咲く春の野と少女」「ボレアス(北風)であった。
 この随筆は絵と草花をテーマにしたもので、この本と双生姉妹として出版されたのが『火用心』である。こちらは主として文藝と日常生活をテーマにしたものだ。
 草花や虫を描いた随筆といえば薄田泣菫であるが、杉本秀太郎の随筆は趣を変えた名著であると思う。この本と出会えた喜びはたとえようがない。