飛翔

日々の随想です

回想の父茂吉 母輝子

回想の父茂吉 母輝子 (中公文庫)

回想の父茂吉 母輝子 (中公文庫)


 斉藤茂吉の息子、斉藤茂太が書いた人間茂吉と茂吉一家の回想記である。
先ずは有名な「蝉論争」の真相について抜粋してみよう。
それは昭和初期の小宮豊隆と茂吉のセミ論争である。
山形の山寺で芭蕉が詠んだ「閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声」のセミが、ニイニイ蝉カアブラ蝉かという論争だ。小宮先生ニイニイ蝉、茂吉アブラ蝉説だ。茂吉の検証ぶりは「執念深い」としか言いようがないが、最後の段階では山寺の麓の小学校に頼み、小学生を動員して山寺に登ってもらい、蝉をつかまえてもらうという有様だった。この論争にもし茂吉が勝っていれば茂吉のあくなき努力は実を結んだわけだが、結果はその反対で、茂吉は小宮さんに降伏したのであるから実におもしろい。

とある。
 茂吉の「粘着気質」をあげながら分析しつつ話を進めていて他の回想記とは異なる面白さがある。
 北杜夫の『楡家の人びと』にもでてくるように茂吉のウナギ好きは有名。
そのエピソード:
著者茂太と美智子の見合いの日のこと。
茂吉はウナギを食べるとものの数分で樹々の緑が鮮やかに見えるという理屈に合わない神話的ウナギ信仰者だったらしい。見合いの席で若い美智子が緊張でウナギを残すと「それを私にちょうだい」といって茂吉は食べてしまったという。
 また「蒲焼の大小について」
 アララギの選歌のとき、夕食にウナギの蒲焼が出た。先ず一番大きそうなのを茂吉の高弟があらかじめ選んで茂吉の前においておいた。あとは順番に4人の弟子にうなぎをおくと・・、
茂吉はするどい目でみんなの前の蒲焼を鑑定。5人前の蒲焼を「君そっちの方が大きいから取り替えてくれ」と移動し、あげくは「やっぱりこの方が多きいいから」とはじめに並べたとおりになるのだったという。
 なんとも「子どもっぽい」人であったのだなあと親しみがわいてくる。
 またしみじみと心打たれるエピソードに幸田露伴と茂吉の交流がある。
 茂吉が文学の世界で「先生」と呼んだ人は子規のほか、伊藤左千夫森鷗外幸田露伴だった。
 特に露伴とは互いに深く心の通うものがあったようだ。
 体質的にも、病状も晩年幻覚(幻視)を体験しているとことも似ていたようだ。
 幸田露伴の娘の幸田文が『ちぎれ雲』の中で「斎藤先生三題」と題して茂吉を描いている。
 文さんははじめて茂吉にあったのは岩波書店の廊下でのこと。
 露伴の娘と聞いた茂吉は「これはこれは」と言った。高名や権威でなく「なんだか正体の知れないなつかしさ」を感じたと文はのべている。
 その頃文は離婚を考えていた頃で露伴はそれに対して峻厳な仮借なき態度で臨んでいた。文はもう少し優しい父親であってほしいと思っていたので、茂吉のやさしさによけいに「ただ一途に人の親のなつかしさを直感してしまった」のだろうと著者は書いている。
 あとがきで著者は(父母を書いた前著は何冊かあるが、それらは一生もしくは半生を史実的に書いたものである。この本はそうでなく、いわば事実を繋ぎ合わせたモザイク調の文章になっている。これまでの本よりも自由に私の心情を記せたとおもっている」とある。
 事実を記すと同時に息子としてまた妻の美智子がこの扱いずらい超ど級のわがまま自己中心的姑と茂吉の間で獅子奮迅した様子を交えた「茂吉一家」の回想記となっていて、人間茂吉がありありと浮かんだ回想記だった。