飛翔

日々の随想です

2009年おおつごもり

  2009年のおおつごもりの今日。風強しといえども天気晴朗なり。
 この一年が過ぎていこうとしている。親戚のまだ独身の若者が難病で職もなく年老いた親に介護されながら行く年を越し、新しい年を迎えようとしている。親類の私は何かをしてあげようとしてもそのすべがない。医療は日進月歩といわれているが、まだまだ難病を治すめどすらないのが実情だ。大原麗子さんがこの寒空の下、孤独な死をむかえたことは人事でなくつらいことだった。

 年金問題、米軍基地移転問題、雇用促進などこの不景気の中、新政権は右往左往している。長年の積み残し、税金の無駄遣いが何兆円とある一方、ないといわれた政府の埋蔵金はしっかりとあり、各都道府県の裏金埋蔵金があきらかになった。
どこから手をつけるべきか政府も知恵を尽くしているのだろうが、難病はすべて指定し、医療控除、補助金をだすようお願いしたい。癌撲滅は現代人の夢である。
 人間が持つ夢はほとんどかなえられるようになってきた。月へ人間が行く時代なのだから。
 景気低迷はまだまだ続きデフレ経済は来年も続くであろうと専門家は言っている。そんな中、眉にしわを寄せ憂うばかりがよいわけはない。
 身の回りのささやかなところに幸はあることに気付きたい。
 幸せと云うものがあるのなら、それはふと笑みがこぼれるところから生まれるのではないだろうか?。
 では笑みがこぼれるときとはどういうときだろう?
江戸時代末期の歌人橘曙覧(たちばなのあけみという人がいる。
『橘曙覧(たちばなのあけみ)全歌集』(岩波文庫)の中から独楽吟(どくらくぎん)と題した連作歌がある。
 52首もの歌はすべて「たのしみは・・・」からはじまっている。

・たのしみは 珍しき書(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時
・たのしみは 妻子(めこ)むつまじくうちつどい頭(かしら)ならべて物をくふ時
・たのしみは 空暖かに うち晴れし春秋の日に出(い)でありく時
・たのしみは 朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲けるを見る時
・たのしみは 家内(やない)五人(いつたり)五(いつ)たりが風邪だにひかでありあへる時
・たのしみは 心をおかぬ友だちと笑ひかたりて腹をよるとき

などと52首が並ぶ。
江戸時代末期の歌人の歌にこんなになごやかで心ほどける歌があったのかと驚くとともに嬉しく共感するのである。

・たのしみは 朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲けるを見る時は驚くなかれ天皇訪米の時、時の大統領、クリントン氏が歓迎式典で引用した歌である。
このうたは亡き母が毎朝発する言葉とそっくり同じだったので親しみがます。時代を超えて人の心に生じる感情は変わることがないと感動する。

本来歌というものはこうした感情から生まれるものではないだろうか?
「わ!昨日まで咲いていなかったのに起きてみたら咲いている!嬉しい!可愛い!愛しい!」
親子五人食卓を囲んでものを食べていられることって本当に嬉しくて楽しくて幸せだ!

そんな感情はだれもが持っている喜びである。
そんな嬉しいこと、幸せなことなのに、人はさほど幸せだと感動しない。
しかし、昨今のように不況の嵐の中にいるとそんな日常の喜びや幸せがどんなに大切なものだったかを思い知るのだ。

人はささやかなことにいつのまにか眼もくれなくなってしまったのである。
それはあって当たり前のことになってしまっているのだ。

家族そろって食卓に着くこと、誰もきづかないうちにかすかな音とともに花のつぼみがほころびることなどを。
指の先をちょっと怪我をして初めてその指がどれだけ重要なやくわりをしていたのか気付くのだ。

生きとし生けるもの。そのささやかな営みの中に多くの楽しさがあり、笑みがあり、命あることの喜びが詰まっていることをみつけたいものだ。
来るべき2010年はそうしたことを念頭に慎ましくも和やかな一年であってほしいと切に思うのである。

 このブログをご訪問くださった皆々様、今年はありがとうございました。
 来年は皆様にとって幸多く健やかな年でありますよう祈念いたします。