飛翔

日々の随想です

無精箱 

 日本の冬の居間には炬燵がつきものだ。
 しかし、この炬燵、快適すぎて出るのがおっくうになる。
 はさみが必要でもとりに行くのがおっくうだと誰かが居間に来るのを待ったりする。来たとたんに用事を頼む。
そんな感情は江戸時代の人も同じだったようだ。
 こんな句がある。

・火燵からおもへば遠し硯紙(すずりかみ) 沙明(『古句を観る』柴田宵曲著(岩波文庫)より)

作者は火燵に入っていて何か書くべき硯(すずり)や紙の必要を感じながら、取りに行くのが面倒なためにその「硯紙」を遠く感じるのである。
そういえば「火燵」のことを「無精箱」(ぶしょうばこ)などと呼ぶ人もいるが、けだし言いえて妙。

一家団欒を象徴する炬燵はそれぞれの座る位置が決まっているものだ。
子供の頃居間の掘り炬燵で一番良い席、テレビをみるのに最上席は父のものであった。
座布団は母特製のふかふかのお相撲さんが座るようなものだったし、炬燵でごろ寝する「ごろ寝用布団」も母の手作りだった。

次に良い席は姉たちが座り、一番悪い席、テレビを背にする席は味噌っかすの私のだった。

そして最後にみんなが温かそうにくつろいでいる炬燵にお茶を運んでくる母の席はなく、みそっかすの私の席の隣に足も入れずに座るだけだった。

寒い冬、やっと夕食の後片付けや雑事を終えた母が炬燵で暖を取ろうとすると父が用事を言いつける。
そんな父が憎くて私は「お母さんはそこにいて!私がやる!!!」と父をにらみつけたものだった。

といい子ぶる私も時々、炬燵にもぐりこみながら「お母さ〜〜〜〜〜ン!あれ持ってきて〜〜〜〜えええ」などと頼んだりするのだった。

そしてたまに母が炬燵にいて「ろこちゃん、お母さんにおミカン持ってきてくれる?」などと言うと、私はくるりと振り返って「あっかんべ〜え、お尻ぷりぷり」などと言ってお尻を振っておどけてみせる。

母は笑い転げながら「やだわ〜。ろこちゃんはすぐそうやってふざけるんだから」と言って「くくくく」と笑ったりした。

私はおどけたままの顔で台所にミカンを取りに行き、母がいつまでも笑っていることが嬉しくて仕方がなかった。

私は本当に母のことが大好きで大好きな子だった。