寒波がすっぽりと列島を覆った。
寒い寒い「文化の日」であった。
あまりにも寒いので炬燵をだし、灯油を買いに走った。
炬燵といえば物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦の俳句にこういうのがあった:
(終夜妻の柩を守りて)
・今そこに居たかと思ふ火燵かな
亡き妻の通夜、棺を前に偲んでいるとき、ふと火燵に妻がいるような気配がする。
あるいはさっきまで妻は火燵にいたんだと錯覚するぐらい妻はいつだって自分のそばにいた。火燵にはまだ妻がそこに座っているような空気がただよっている。
そんな風に常日頃いて当たり前のような妻が、こうして棺の人になってしまったとは・・・とまだ亡くなったことが信じられないでいる作者の気持ちがにじんでいて悲しい。
肉親の死というものはこんな風に突然やってきて遺された者は茫然自失になる。
私も母が亡くなった日、幾度も母が起きてきそうな気がしてならなかった。
亡くなってしばらくしたある日、外出先の公衆電話から母に「今晩夕飯たべてくるから」と電話しそうになって愕然となった。
「ああ、お母さんはもういないんだ!!!!!!」と涙がこみ上げてきた。
火燵というと思い出す一句であった。